「置かれた場所」がつらければ、別の場所を探してもいい

今、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況だと捉えるのが、仏教の視点です。 

たとえば、同僚や上司との人間関係がうまくいかなければ、それは深刻な問題かもしれません。しかしそこを辞めれば、職場の人間とは一切の関係がとぎれます。家族でさえ一緒にいるから「家族」なのであって、離婚したり、生まれてすぐ親子が離れ離れになったとしたら、赤の他人同士です。  

たとえ、自分でその場所を選んだのだとしても、予想に反して「たまたま」つらい場所だったということはよくあります。それならば、別の場所を探してもいいし、もうしばらくその場所に居続けると決めてもいい。  

そこにいるかいないかは、自分自身で選べます。本当につらいのは、その選択の余地がないときです。

どんな場所も人間関係も、「絶対」ではありません。そこに行けば一生安心と言える居場所など、この世にはあり得ません。もし「自分の居場所が欲しい」と思うのなら、自分で探すか、居場所を確保するために、ここと決めた場所が少しでも居心地がよくなるよう工夫するしかありません。

置かれた場所で咲かなくてもかまわない。ただ、やり方によっては咲くこともある。その程度のスタンスで「置かれたところ」にいれば十分だと私は思います。

( 南直哉 )


恐山で住職代理をされている僧侶の南さんの言葉です。

「 置かれた場所で咲きなさい 」という渡辺和子さんの言葉は、私の好きな言葉の一つですが。ウクライナのニュースをみると、理不尽で厳しい立場に置かれている時には過酷な話しかもしれません。幸運にも自分が置かれたい場所に置かれた時ならよいですが、置かれた場所で咲かなければならない、置かれた場所で咲けない自分はダメだと思い込んでしまうと苦しみが生じてしまうかもしれません。

南さんの言う、置かれた場所で咲くこともあるし、咲かなくてもかまわない。それぐらいのスタンスが良いのかもしれません。